鹿児島県社会人野球の歴史

昭和30年代には、最大で3つの社会人チームが存在していました。

国鉄鹿児島鉄道管理局野球部

1987年(昭和62年)の鉄道民営化と同時に、鹿児島・熊本・大分の鉄道局チームは、門司局に統合され、現在の「JR九州」となり、廃部しました。
鹿児島鉄道管理局野球部は、昭和5年の第4回都市対抗野球大会に初出場し、昭和54年まで6回の出場、戦績2勝6敗となっております。

鹿児島市電野球部

現在の鹿児島市交通局です。昭和26年から37年までの11年間、活動していました。
プロ野球選手も輩出するなど、「鹿鉄」と二強時代といった時期もありましたが、都市対抗野球大会には出場できておりません。

鹿児島トヨタ野球部

昭和30年から33年の4年間、活動していました。
プロ野球OBなどを交えチーム編成しましたが、「鹿児島市電」には勝利しているものの、「鹿児島鉄道管理局」にはなかなか勝てなかったようです。


 

昭和62年に国鉄鹿児島鉄道管理局野球部がなくなって以来、鹿児島県には、社会人の硬式野球チームがありませんでした。

その後、平成18年に鹿児島では、約20年ぶりとなる「鹿児島ホワイトウェーブ」が発足。

更に、平成19年には「薩摩」が発足し現在に至っております。

「鹿児島ホワイトウェーブ」は、平成24年に「鹿児島ドリームウェーブ」へ改称し、同年、鹿児島県から初出場となる「第37回全日本クラブ野球選手権大会(埼玉西武プリンスドーム)」に出場するも初戦敗退。

平成27年「第40回全日本クラブ野球選手権大会」に3年ぶりに出場し、2回戦茨城ゴールデンゴールズに敗れるも、見事初戦突破、鹿児島県勢として「全日本クラブ野球選手権大会」初勝利を手にしました。